はがきとの出逢い・始めたきっかけ
おはようございます。
今朝はいつもの時間よりも40分ほど早い2時38分に起床。
すぐに朝のはがきタイムでした。
本日は「私のはがき(道)との出逢い」について少しお話させて頂きます。
私がはがき道に出逢ったのは、いまから4850日前の2008年5月17日(土)でした。
当時私は、県内の某スーパーマーケットで、全くやる氣のない毎日を送っていました。
8時出社の1分前とか30秒前とかに着き、着替えをして仕事を始めるのは8時10分とか15分。定時になるとすっ飛んで帰る、と言っても家に帰ってもやることはない、そんなような生活でした。そんないつもの日のことです。
土曜日の朝、上司の店長と洋日配の商品補充をしていた時です。
店長から「お前、中村文昭って知ってるか?」
私:「知らないです」
店長:「実は今日の午後、甲府市で彼の講演会があるんだけど、お前来るか?俺は〇〇(レジのチーフ)と行くことになってるんだけど、どうする?お前は社員ではないから、自腹になってしまうが・・」
「私だけ・自腹で」2500円、しかし、何か引っかかるものがあって、参加しました。
今でもよく覚えています。季節は5月でしたが、30度を超える暑い日でした。
当時の私は車を持っていなかったので、公共交通機関を使って40分ほどかけて行きました。
中村文昭さん(以後「文昭さん」と書かせて頂きます)、当時確か36歳くらいだったはずです。29歳の時に講演を頼まれて以降、この時すでに年間300講演に達していました。約2時間くらいの講演でしたか。その中で5分くらいとある話をされました。そのとある話、というのが「はがき」の話です。
文昭さんは、名刺交換した人すべてに即日、はがきでお礼状を書いている、というお話です。例えば、名古屋から東京へ新幹線で移動した際に、席で名刺交換した時は、東京駅のホームでその旨のお礼状を書き、東京駅中央改札口のポスト(ここに入れると「郵頼」などしなくても風景印が押印されて、最速で先方に届く)に投函しています、と。そんなことをずっとやってきて、今では(2008年当時)、年賀状のはがき代だけで、300万円です、と。
当時、はがきは1枚50円でしたので300万円というと6万枚!!です。毎年8月から年賀状を書き始める、というお話でした。
一般的にみれば、「中村文昭さん=はがき」をイメージする方は、少ないと思います。
中村文昭さんと言えば、
「頼まれごとは試されごと」
「返事は0.2秒」
「できない理由を言わない」
「今出来ることを一つずつやる」
など
をイメージされる方がほとんどでしょう。
もし、皆さまの中に中村文昭さんをまだご存じないという方がいらっしゃいましたら、Youtubeさん等でいつでも見れますので、どうぞご覧くださいませ。
話を戻します。
約2時間の講演中、ほんの5分はがきの話をされた後、また別の話題に移り、講演会の最後に文昭さんはこう仰いました。
「今日僕ははがきの話をしましたけど、取りあえずやってみる人が100人中2,3人です、と。さらに継続して行う人は、1000人中、1人か2人です。今日ここには150名くらいですから、継続する人は1人いるかいないかでしょう」
と仰ったんですね。
私はなぜかその言葉を聞いた時、「カチン!」と来まして、いま思えば、今朝、突然に店長から誘われ、返事をしたら、私だけ自腹で、この炎天下の中、私だけ公共交通機関で、そうやって参加したお客さんなのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ!?と。
同時に、「ようし、見てろよ、俺は絶対にその1000人の1人に入ってやるからな、待ってろ!!」と思って、帰りに会場から一番近くにあった甲府中央郵便局で100枚のはがきを買って帰ったところから、私のはがき人生は始まります。
一枚目はもちろん中村文昭師匠へ、本日のお礼と1000人の1人に入るという決意表明みたいな文章を書いたことを、今でもよく覚えています。
当時は「複写はがき」(また後日紹介します)なるものを知らなかったため、控えが手元になくて、こちらで紹介することができないのが、残念なところですが、そういった経緯で私のはがき人生がスタートしました。
毎日、全くやる氣のなかった私が、この日を境に人生が変わり出したのは言うまでもありません。毎日はがきを書かなきゃなりませんから、出勤時間ギリギリに起きているわけにはいきませんね(汗)いまでこそ3時起きですが、最初は6時半くらいから始めました。もう13年以上も前のことになりますか。懐かしいものです。
それでは本日はこの辺で。
お読み頂きましてありがとうございます(^^)v
今日は昨日に続きまた暑くなるそうですので、どうぞご自愛の上お過ごしくださいませ。